プロフィール

伝法谷 敦志(デンポウヤ アツシ)

Author:伝法谷 敦志(デンポウヤ アツシ)
1963年3月24日生 北海道夕張市出身。
高校卒後、就職の為上京。1年で退社後俳優を目指し
1984年から仲井真嘉子(ナカイマ ヨシコ)の内弟子となる。
それ以来ワークショップの活動を支え続け、2001年より
仲井真嘉子の後を引継ぎ主宰者となる。

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N・Y アクターズワークショップ
N・Y アクターズワークショップでは、マイズナーテクニックを演技の基礎として学べます。
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創立者 仲井真 嘉子
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仲井真 嘉子の言葉。

≪アクティング・セミナーより≫
ほんの10%の自分が頭で理屈をこねて、「私はこうだ」と思っている。 その一つのキャラクターを演じて、ただの現象に縛られた限界の牢に入れられた、自分の姿を演じているのです。 真実(ほんとう)に生きる為には、本来のあなた自身になる事が大切です。 日常のしがらみの中で、私達の感性は閉ざされ、鈍感になってしまっているのです。 子供の頃は、ボール紙一枚が宝島の地図になったり、王様の王冠になったり・・・・想像力が自由自在でした。 そういう実際には、目に見えないものをクリエイトするのが、アートです。 当ワークショップのレッスンは、私達が忘れてしまっている子供の頃の感性を呼び戻し、人を生き生きと魅力的にさせます。


≪アンテナ体になる≫
アクティング・メソッドの基本は『よく見て、よく聞く』。 つまりアンテナ体になる事です。 改めてまわりをよく観察してみると、見落としていたものはたくさんあります。 そしてそれらを一つ一つ、あるがままにレシーブ(受入れる)すると、あなたは何かを感じます。 その『感じる』ということは、イコール『生きている』ということです。

そしてあなたがそれを『どう感じているか』を素直に表現できた時(本音を言えた時)、あなたの潜在意識(心)の扉が開き、あなたの奥底からパワーが放出し、エネルギーの交流、Encounter(出会い)が行われます。 舞台とは出会いの祭りなのです。

≪仲井真 嘉子について≫
慶応義塾大学仏文学科卒業後、1968年に渡米。 ニューヨークでアメリカ演劇界の二大巨匠、リー・ストラスバーグ氏とサンフォード・マイズナー氏に師事。同じ頃、ニューヨーク大学大学院論文コースに入学。同コースを2年で卒業。その後、マイズナー氏のいるNeighborhood Playhouse School of the Theaterの卒業公演において、ユニバーサル映画にスカウトされた。

しかし、当時のアメリカにおいて、日本人の俳優が活躍する機会は皆無だった。 彼女は、マイズナー氏から助言を受けて帰国を決意した。 その助言とは「君はアメリカに残るより日本に帰って、君のグループを作り、劇を発表したほうがいい」というものだった。

こうして、計6年間の俳優修行を終えて帰国した彼女は、劇団「雲」の講師を務める傍ら、TBS、フジテレビ、東映などの番組にレギュラー出演。 さらに、重要無形文化財総合指定の観世流シテ方、関根 祥六氏に師事し、十数年能修行。 舞囃子「屋島」の源義経の霊(後シテ)など、数々の舞を舞う。

1975年、俳優養成塾「N・Yアクターズワークショップ」を設立、主宰。 製作・演出・主演作品として、テネシー・ウィリアムズ原作「欲望という名の電車」や、オスカー・ワイルド原作「誠が大切」を発表した。この2作品は、彼女の自宅を改装した、小さなアトリエで上演された。 当時の芸能関係者から「小劇場では上演できない」と言われていたが、彼女はそれを見事に演出した。 それを物語る逸話として、紀伊國屋書店の創立者の故田辺茂一氏が「おまえが、それを紀伊國屋ホールでやれば、紀伊國屋賞をやる!」と言われたが、彼女は「私、何々賞は欲しくない」と言って、自宅とアトリエでひたすら後進の指導に専念した。

1984年、第一回オキナワ世界演劇祭(沖縄ジァンジァン)に参加。この時、各参加劇団が作品を発表する中、彼女は、唯一観客参加型のワークショップを行い、マイズナー氏のメソッドを紹介した。 これが絶賛され地元新聞紙に大きく取り上げられた。

1986年、株式会社エンカウンタープレイハウスを設立し、各種イベントの運営を行った。その後も、積極的に講演活動を展開した。(座間米軍基地内のハイスクールと慶應義塾大学と上智大学と中小企業の団体と沖縄婦人教育研究会など)

1993年、ユイマール有限会社を設立し、レストラン経営を行った。 ハウスウェディングと銘打って婚礼のプロデューサーとして精力的に事業を進めてきた。これらの事業展開は、一見演劇とかけ離れたことのように思われる。 しかし、彼女は、マイズナー氏から学んだ「メソッド」を常に実践してきた。彼女が信条として言っていたことは『実人生も舞台!』『もしも、実人生で魅力がなければ、舞台でも魅力がない!』ということだった。

2000年11月、休養中の沖縄にて脳梗塞を患い入院。1年数ヶ月に亘り医師やご家族の懸命な看病が続いたが病状は向上せず、2002年2月16日、最愛の家族に見守られながら永眠した。 享年56歳だった。


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テーマ:演劇・劇団 - ジャンル:学問・文化・芸術



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