プロフィール

伝法谷 敦志(デンポウヤ アツシ)

Author:伝法谷 敦志(デンポウヤ アツシ)
1963年3月24日生 北海道夕張市出身。
高校卒後、就職の為上京。1年で退社後俳優を目指し
1984年から仲井真嘉子(ナカイマ ヨシコ)の内弟子となる。
それ以来ワークショップの活動を支え続け、2001年より
仲井真嘉子の後を引継ぎ主宰者となる。

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N・Y アクターズワークショップ
N・Y アクターズワークショップでは、マイズナーテクニックを演技の基礎として学べます。
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サンフォード・マイズナー
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サンフォード・マイズナー氏は、20世紀を代表する最も深い影響力を持った演技教師で、マンハッタンにあるネイバフット・プレイハウス演劇学校の著名な演出家でもあった。
慎み深さとカリスマ性とを合わせ持ったマイズナーは、数少ない本当の演技教師であり、真実に、自然に、そして感情的に信じられるものを創造すことを、数多くの生徒たちに説いてきた。

そ の生徒の中には、グレゴリー・ペック、ジョアン・ウッドワード、ダイアン・キートン、ジョン・ボイド、ロバート・デュバル、グレース・ケリー、トニー・ラ ンドル、ピーター・フォークなどの俳優たち、シドニー・ルメット、シドニー・ポラックなどの映画監督、劇作家のデビット・マメットなどがいる。

1905 年8月31日、サンフォード・マイズナー氏は毛皮商人ハーマン・マイズナーの家に生まれた。 そしてエラスムス高校、ダムロッシュ音楽学校、シアターギル ド演劇学校を経て、映画「欲しいものは分かっていた」のエキストラでデビューし、25歳の時にリー・ストラスバーグ、ステラ・アドラーやエリア・カザン等 と供にグループ・シアターを興した。

グループ・シアターはモスクワ芸術劇場のコンスタンチン・スタニスラフスキー氏の演技法「感情的記憶」を用い、1931年から1941年までの10年間、 野心あふれる社会劇をブロードウェイで次々に上演していた。 マイズナー氏はそこで、「ゴールデン・ボーイ」、「黄金の鷹男」、「目覚めて歌え」、「失われた楽園」などの主要人物を演じた他、多くの役を演じ、 1935年のクリフォード・オデッツ作「レクティーを待ちながら」ではオデッツと共同演出し、評論家に絶賛された。

マイズナー氏はその頃から、演技とは「想像上の状況に真実に生きる能力」だと確信し、彼は「他の俳優たちと、最も信用できる舞台を分かち合う事は、自分で 一つのキャラクターを創りだす事と同様に重要であり、“他の役者のほうが自分より大事なのだ”と言われることは、俳優にとって苦い薬を無理矢理飲まされる ようなものだろう、しかし、これは真実なのだよ」という。

また、1935年からはネイバフット・プレイハウスで教師となり、翌年同校の教師長となり、指導するようになった。 その後も数々の優れた舞台や映画に出 演するが、1964年からは教師に専念した。 彼は1990年にアメリカンマスターというTV番組(PBS局)で、「演劇の最高の秘密」として紹介されました。

そのインタビューで彼は こう答えました「私のメソッドは、グループ・シアターの中で、心を打ち込んで学んだ指針となる原則を、強化するように作られている。 その原則とは、“芸術は人間の経験を表現するものだ”ということだ。 私はこの原則を決して放棄したことはないし、これからも放棄しない。」 さらにこの 番組のことはTVジャーナルという雑誌でも紹介されました。

ネイバフット・プレイハウスは、ニューヨークのマンハッタン1番街54丁目にある、赤レンガの建物で、教室には標語として「考える前に行動しろ」「1オン スの行動は、1ポンドの言葉と同じだ」というのが額に入って揚げられている。 そこで行われる彼のレッスンは、二人一組の即興であり、お互いが向き合い、 “どう感じるか”という一瞬一瞬反応しあう事を主題としている。

その間中彼は、終始何も言わず集中して見守っているが、練習後に初めて二人の生徒に、真実に反応しあっていたかどうかを指摘するものだった。 そうして 「演技は、本能と直感によって基礎付けられており、俳優の内面に流れるリズムは、どんな動作よりもコントロールし難いものであるが、もし、シーンを本当に “生きたもの”にしたければ、その微妙なバランスを維持し続けなければならない」とクラスに忠告した。

劇作家デビット・マメットは「マイズナーは、私達が出会った本物の内の一人だ。 彼は、真実に直面しなければならない事を、我々に悟らせてくれた」と語っ た。 また、「刑事コロンボ」でお馴染みの俳優、ピーター・フォークは「若い頃から、自分が尊敬できる俳優の理想像を追い続けてきた。彼はそれを与えてく れた」とインタビューで答えた。

1995年2月に放映されたTVシリーズ「ER」に、患者役で出演したのが最後の演技だった。 そ れ について、「E.T.」や「A.I.」などで有名な映画監督のスティーブン・スピルバークは「これほど長い間、演技を教え続けてきた先生が、遂に生徒達の 前で最高の演技を示す事が出来たのを見れたのは、嬉しいね」と語った。

1997年2月2日、半世紀もの間数千人の生徒達に、演技を教え続けてきた偉大な先生は、カリフォルニアのシャーマン・オークスにある自宅で、永遠の眠りについた。 享年92歳であった。






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サンディーからのメッセージ
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常に具体的であれ。

どんな瞬間にもすべて意味がある。

瞬間に生きろ。
完全に生きる、一瞬一瞬に、それが真実だ。
聞いて、観察して、聞いて、本当に見て、聞いて、集中して、聞く。

たまたま何かが起こって、あなたに「それ」をさせるまで、何もしてはいけない。

考える前に、行動しろ-あなたの本能はあなたの考えよりもっと正直だ。

愛想のよい魅力なんてあり得ない。

1オンスの行動は、1ポンドの言葉に値する。

そこに何も無いなんてことはあり得ない。

沈黙は大いに語る - それはやはり、罪の大きさを包み隠すのと同じことだから。

何でも当たり前だと思うな。


≪ゲーテが言ったサンディーのお気入りの言葉≫
「舞台が綱渡りのロープのように細かったらどんなにいいだろう。そうすれば才能の無い者が
舞台に立とうとしなくなるから」

≪サンディはショーからデュースに関する言葉を貰った≫
「総ての基本事実の背後は人間的である」

*ショー :バーナード・ショー
 《1856‐1950 アイルランド生まれの英国の劇作家・批評家。1925年ノーベル文学賞受賞。》

*デュース :エレオノラ・デュース
 《1858-1924 イタリアの女優。世界中でデュマ、イプセン、ヴェルガの作品を演じて名声を博した。》

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マイズナーは演劇の最高の秘密だった
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《写真のコメントより》
サンフォード・マイズナー 、85歳、映画や舞台などでお馴染みのグレゴリー・ペック、ロバート・デュバル、ジョアン・ウッドワードらを含めた最も熟練した、そして有名な俳優達を訓練しました。

《本文より》
彼の身体は障害を受けて、しかも彼の声はかすれたしわがれ声である。 それでもサンフォード・マイズナーは続けている。 マイズナーは85歳を迎えた1週間前の誕生日に、アメリカンマスターという番組(PBS)でプロフィールを紹介されました。

彼はアメリカで最高の演劇の教師の1人と思われています。 「私自身、楽しんでいる唯一の時は教えている時です。」と彼が言います。 そしてその楽しみは 50年以上続きました。 およそ50年の間、マイズナーはニューヨークのネイバフットプレイハウスでアクティングを教えました。

リー・ストラスバーグ、ユタ・ハーゲンあるいはステラ・アドラーと比べてあまりよく知られていなくて、彼は「演劇の最高の秘密」と呼ばれました。 しかし、それは彼の生徒達からではありませんでした。

献身的なマイズナー門弟のリストは印象的です:ジョアン・ウッドワード、ロバート・デュバル、グレゴリー・ペック、トニー・ランドル、エリー・ウァラク、 アンネ・ジャクソン、ピーター・フォーク、グエン・バードンとさらに多いのです。 「彼が我々に要求したものは真実のアクティングだった」と、ペックがテレビ放送で感謝を表したことを思い出します。

 「そしてその証として彼ら自身のアクティングに、ある種の基礎が築き上げられ、そしてアメリカのアクティングは大いなる変化をもたらされました、そうした中から出てきた人々の数です。」と語りました。

近頃、彼の身体は病いにより弱くなってきましたが、マイズナーは辞めませんでした。 1984年の交通事故により、左脚と腰を打砕きました。 その10年以上前には、咽頭癌が彼の声を奪いました。しかし、彼は食道に空気を吸込んで音を出し、再び話す事を学びました。 

ま た、マイズナーはアクティングについて、それがそうなのか、そうじゃないのか、分析しながら話をするのが大好きです。 「私は明確な定義を持っていま す」、とマイズナーが言いました。 また、先日のインタビューでは「アクティングは想像上の状況の基で正直に生きる能力です。」とも言っています。

台詞を学ぶ能力は十分ではありません、と彼が言いました。 「俳優はテキストを生きたものにしなければなりません。」 「俳優だけが、どのように彼ら自身 の内面に真実を見いだし、台詞の真実がどこから見出されるべきか知っています。 私の仕事は、それらが表面に現れて来るために、何かが内面に起こっている ことを認める練習の手助けをすることです。」

マイズナーはニューヨーク、ロサンゼルス、そしてカリブ海のベキュイア島の彼の家で教え ます。 毎年夏にはベキュイアで25人の年輩でプロの俳優のために2週間と4週間のセッションを行います。 もし彼らが、これらのワークショップを乗り切 るなら、研究生は11月に始まって5月に終わる2年間のコースのためにカリフォルニアに行きます。

彼は、技術に関する知的な論理を嘲笑い、アクティングに関しては僅かなルールを使うだけでした。 「アクティングは行動であり、そして有意義なアクティングとは感情的な状況の基に行動する事だ。」と彼が言います。

ニューヨークで、マイズナーはネイバフット・プレイハウスでアクティング課の長を務めています。 彼は9月に通常75~100人の新入生をすべて受け持ち ます。 毎日これらの新入生は、たいてい自然性と集中力の開発を取り扱う、一連の訓練を体験しなければなりません。 その後に、特徴開発のクラスがありま す。  11月になると彼は研究生達を、彼自身が訓練した教師に引き渡しましたす。

マイズナーが教えるとき、不明瞭なしわがれ声を拡大 するために、たいていマイクロホンを使いました。 けれども彼の意見は、相変わらず明確でしかも鋭いです。 「最近の学生は幾分教養がありません。」、と彼が言いました。 「多分それはテレビです。 彼らは演劇に必要な多くの基礎を持っていません、しかも何故、 彼らは浅はかな事しか知らないのか。 皆がただお金を儲けることを望み、その原因はテレビにあります。」

マイズナーはブルックリンで生まれました。 ハンガリーの移民の息子として、彼は父親のような毛皮職人になるように訓練されました。 けれども彼は19歳のとき劇場を見つけ出し、それからは父の言う事には回顧しませんでした。 その代わりに彼は俳優になりました。

マ イズナーは、ハロルド・クラーマン、リー・ストラスバーグ、シェリル・クロフォードらと1930年代にブロードウェーで有名かつ影響力を持ったグループ・ シアター創立者の1人でした。 「Men in White」、「Awake and Sing」、「Golden Boy」を含む劇団の大ヒット作のいくつかに出演しました。 マイズナーはグループ・シアターのメンバーであると同時に、ネイバフット・プレイハウスでも教え始めました。

劇団は1941年に解散しま した、しかしマイズナーはネイバフット・プレイハウスで教え続け、ごくまれに舞台に出演するだけでした。 彼の映画出演もやはりごくまれでした。 彼が出 演した映画で、最も良く知られているのは、「The Story on Page One」と「Tender is the Night」でした。 

しかし、彼は研究生達にあらゆる種類の芝居をするよう熱心に話し、彼が特別に演じて見せたのは、もしも研究生らが自分たちの技能向上を望む場合のみでした。 「アクティングは面白いです。」と彼がテレビ番組で言います。 「それを、やたら広めないでください。」(笑)



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創立者 仲井真 嘉子
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仲井真 嘉子の言葉。

≪アクティング・セミナーより≫
ほんの10%の自分が頭で理屈をこねて、「私はこうだ」と思っている。 その一つのキャラクターを演じて、ただの現象に縛られた限界の牢に入れられた、自分の姿を演じているのです。 真実(ほんとう)に生きる為には、本来のあなた自身になる事が大切です。 日常のしがらみの中で、私達の感性は閉ざされ、鈍感になってしまっているのです。 子供の頃は、ボール紙一枚が宝島の地図になったり、王様の王冠になったり・・・・想像力が自由自在でした。 そういう実際には、目に見えないものをクリエイトするのが、アートです。 当ワークショップのレッスンは、私達が忘れてしまっている子供の頃の感性を呼び戻し、人を生き生きと魅力的にさせます。


≪アンテナ体になる≫
アクティング・メソッドの基本は『よく見て、よく聞く』。 つまりアンテナ体になる事です。 改めてまわりをよく観察してみると、見落としていたものはたくさんあります。 そしてそれらを一つ一つ、あるがままにレシーブ(受入れる)すると、あなたは何かを感じます。 その『感じる』ということは、イコール『生きている』ということです。

そしてあなたがそれを『どう感じているか』を素直に表現できた時(本音を言えた時)、あなたの潜在意識(心)の扉が開き、あなたの奥底からパワーが放出し、エネルギーの交流、Encounter(出会い)が行われます。 舞台とは出会いの祭りなのです。

≪仲井真 嘉子について≫
慶応義塾大学仏文学科卒業後、1968年に渡米。 ニューヨークでアメリカ演劇界の二大巨匠、リー・ストラスバーグ氏とサンフォード・マイズナー氏に師事。同じ頃、ニューヨーク大学大学院論文コースに入学。同コースを2年で卒業。その後、マイズナー氏のいるNeighborhood Playhouse School of the Theaterの卒業公演において、ユニバーサル映画にスカウトされた。

しかし、当時のアメリカにおいて、日本人の俳優が活躍する機会は皆無だった。 彼女は、マイズナー氏から助言を受けて帰国を決意した。 その助言とは「君はアメリカに残るより日本に帰って、君のグループを作り、劇を発表したほうがいい」というものだった。

こうして、計6年間の俳優修行を終えて帰国した彼女は、劇団「雲」の講師を務める傍ら、TBS、フジテレビ、東映などの番組にレギュラー出演。 さらに、重要無形文化財総合指定の観世流シテ方、関根 祥六氏に師事し、十数年能修行。 舞囃子「屋島」の源義経の霊(後シテ)など、数々の舞を舞う。

1975年、俳優養成塾「N・Yアクターズワークショップ」を設立、主宰。 製作・演出・主演作品として、テネシー・ウィリアムズ原作「欲望という名の電車」や、オスカー・ワイルド原作「誠が大切」を発表した。この2作品は、彼女の自宅を改装した、小さなアトリエで上演された。 当時の芸能関係者から「小劇場では上演できない」と言われていたが、彼女はそれを見事に演出した。 それを物語る逸話として、紀伊國屋書店の創立者の故田辺茂一氏が「おまえが、それを紀伊國屋ホールでやれば、紀伊國屋賞をやる!」と言われたが、彼女は「私、何々賞は欲しくない」と言って、自宅とアトリエでひたすら後進の指導に専念した。

1984年、第一回オキナワ世界演劇祭(沖縄ジァンジァン)に参加。この時、各参加劇団が作品を発表する中、彼女は、唯一観客参加型のワークショップを行い、マイズナー氏のメソッドを紹介した。 これが絶賛され地元新聞紙に大きく取り上げられた。

1986年、株式会社エンカウンタープレイハウスを設立し、各種イベントの運営を行った。その後も、積極的に講演活動を展開した。(座間米軍基地内のハイスクールと慶應義塾大学と上智大学と中小企業の団体と沖縄婦人教育研究会など)

1993年、ユイマール有限会社を設立し、レストラン経営を行った。 ハウスウェディングと銘打って婚礼のプロデューサーとして精力的に事業を進めてきた。これらの事業展開は、一見演劇とかけ離れたことのように思われる。 しかし、彼女は、マイズナー氏から学んだ「メソッド」を常に実践してきた。彼女が信条として言っていたことは『実人生も舞台!』『もしも、実人生で魅力がなければ、舞台でも魅力がない!』ということだった。

2000年11月、休養中の沖縄にて脳梗塞を患い入院。1年数ヶ月に亘り医師やご家族の懸命な看病が続いたが病状は向上せず、2002年2月16日、最愛の家族に見守られながら永眠した。 享年56歳だった。


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